2008年01月24日
早速ですが、昨日の記事の補足。
昨日のエントリーで「夫と結婚したから寺にいる」と書いたけれど、正しくは「僧侶と結婚し、夫が寺に入ることになったからついてきた」である。
えー、お坊さんて結婚して良いの?!とショックを受けたあなた、ある意味正しい反応です。
そもそも仏教の僧侶が公然と結婚できるのは日本だけ。インドに行ったとき、最初の宿がお寺の中で、夫が僧侶である旨伝えたら、ハネムーンだというのにあやうく別々の部屋にされるところだった(しかも夫が連れて行かれた部屋の方が上等だった・・・)。本当は、仏教的にはそれが正しい対応なのだけれど。
日本では明治維新以降、僧侶の蓄髪(髪を伸ばすこと。鹿児島では坊主頭のお坊さんてあまり見ませんよね)と妻帯が法律で許可されたため、本来仏教僧に禁止されている結婚を、当たり前のようにするようになったのである。それまでも密かに女性を囲う坊さんも居たようだが・・・長くなるのでまたの機会に。
さて、昨日の続き。
夫との出会い。それは「中国語とホワイトボード」である。
大学卒業後、東京で仕事をしていた私だったが、夢破れ恋破れ体も壊し、身も心もある意味ぼろぼろになって鹿児島に帰ってきた。
ぼろぼろな私を救ってくれたのが、二人の兄の子供たちである。端から見たら、単に赤ちゃんの世話手伝いと幼稚園児の遊び相手をしているだけのことだったかもしれない。けれど、当時「あたしなんかこの世に存在する意味ない・・・何の役にも立たない・・・」と慢性自信喪失症候群に陥っていた私を、子供たちは無条件に求め、甘え、頼りにしてくれてた。求められる、ということがどれほど人間を立ち直らせるかを、私は身を以て経験させられた。
いつまでもこのままではいられない、独り立ちできるように仕事をしないと・・・自分に何が出来るだろう?そんな風に前向きに物事が考えられるようになってきたとき、教員採用試験を受けてみようと思い立った。試験終了後、結果が出る前に臨時採用の打診が来て驚いた。もっと驚いたのは、その赴任先が3歳まで暮らしていた町だということだ。なにか不思議な力に導かれているかのよう。
導かれるまま、実家を出て、初めての教員生活が始まった。生徒数400人足らずの実習系高校で、1年生の国語を受け持つことになった。時は「学級崩壊」が流行語になり出した頃で、自分の高校時代しか記憶にない私には、驚きの連続連続!授業中ジュース飲むな!化粧するな!黙ってトイレ行くな!ちゃんと人の話聞け〜!黙れ〜! きっと、大学卒業してすぐ教員になっていたら、すぐやめてただろうなと思われる位、教室の様相は乱れていた。新米の私を生徒たちが舐めていた、というのもあるだろうけれど。それでも、教員生活はとてもとても楽しかった。やりがいがあった。こちらが変われば生徒も変わる。騒ぐ子にばっかり目がいってしまいがちだけれど、それはほんの一部。半分以上の子は、きちんと授業を受けたいと思っている。その子たちのために、授業を頑張ろうと具体的に動き始めたら、騒いでいた子たちも落ち着きだした。
「教員なんて変わり者ばかりなんだよ。」と嘯く同僚の先生たちはいい人ばかりで(ということにしておこう)、毎日が面白く次の教員採用試験は絶対受かるぞ!と意気込んでいた。
ある日、授業中生徒たちと修学旅行の話になり、その行く先が中国だというのを聞いて、ふと悪戯心を起こしミニ中国語講座をやってみた。抑揚がはっきりした中国語の発音にみんな大受け。授業を終えて職員室に戻ろうとしたら、女子生徒が真面目な顔で私の前に立った。
「先生、中国語できるんですね」
「留学してたから発音はそれっぽく出来るけど、もうヒアリングは全然できないよ。」
「あの、実は私、中国人の人と中国語の勉強会やってるんです。先生、来ませんか。」
ずっと再開したいと思っていた中国語の勉強。しかも生徒が誘ってくれるなんて、断ったらばちがあたる。是非行きたいと答えると、
「よかったあ、参加者少ないんです。来てるのは女性が3人位と男の人が二人。一人はお坊さんなんですけど。」
お坊さん・・・坊主頭のおじいちゃんが浮かぶ。お経も漢文だしな・・・。
その「お坊さん」と自分が結婚することになるとは、このときは全く予想だにしていなかったのである。
・・・続く。
昨日のエントリーで「夫と結婚したから寺にいる」と書いたけれど、正しくは「僧侶と結婚し、夫が寺に入ることになったからついてきた」である。
えー、お坊さんて結婚して良いの?!とショックを受けたあなた、ある意味正しい反応です。
そもそも仏教の僧侶が公然と結婚できるのは日本だけ。インドに行ったとき、最初の宿がお寺の中で、夫が僧侶である旨伝えたら、ハネムーンだというのにあやうく別々の部屋にされるところだった(しかも夫が連れて行かれた部屋の方が上等だった・・・)。本当は、仏教的にはそれが正しい対応なのだけれど。
日本では明治維新以降、僧侶の蓄髪(髪を伸ばすこと。鹿児島では坊主頭のお坊さんてあまり見ませんよね)と妻帯が法律で許可されたため、本来仏教僧に禁止されている結婚を、当たり前のようにするようになったのである。それまでも密かに女性を囲う坊さんも居たようだが・・・長くなるのでまたの機会に。
さて、昨日の続き。
夫との出会い。それは「中国語とホワイトボード」である。
大学卒業後、東京で仕事をしていた私だったが、夢破れ恋破れ体も壊し、身も心もある意味ぼろぼろになって鹿児島に帰ってきた。
ぼろぼろな私を救ってくれたのが、二人の兄の子供たちである。端から見たら、単に赤ちゃんの世話手伝いと幼稚園児の遊び相手をしているだけのことだったかもしれない。けれど、当時「あたしなんかこの世に存在する意味ない・・・何の役にも立たない・・・」と慢性自信喪失症候群に陥っていた私を、子供たちは無条件に求め、甘え、頼りにしてくれてた。求められる、ということがどれほど人間を立ち直らせるかを、私は身を以て経験させられた。
いつまでもこのままではいられない、独り立ちできるように仕事をしないと・・・自分に何が出来るだろう?そんな風に前向きに物事が考えられるようになってきたとき、教員採用試験を受けてみようと思い立った。試験終了後、結果が出る前に臨時採用の打診が来て驚いた。もっと驚いたのは、その赴任先が3歳まで暮らしていた町だということだ。なにか不思議な力に導かれているかのよう。
導かれるまま、実家を出て、初めての教員生活が始まった。生徒数400人足らずの実習系高校で、1年生の国語を受け持つことになった。時は「学級崩壊」が流行語になり出した頃で、自分の高校時代しか記憶にない私には、驚きの連続連続!授業中ジュース飲むな!化粧するな!黙ってトイレ行くな!ちゃんと人の話聞け〜!黙れ〜! きっと、大学卒業してすぐ教員になっていたら、すぐやめてただろうなと思われる位、教室の様相は乱れていた。新米の私を生徒たちが舐めていた、というのもあるだろうけれど。それでも、教員生活はとてもとても楽しかった。やりがいがあった。こちらが変われば生徒も変わる。騒ぐ子にばっかり目がいってしまいがちだけれど、それはほんの一部。半分以上の子は、きちんと授業を受けたいと思っている。その子たちのために、授業を頑張ろうと具体的に動き始めたら、騒いでいた子たちも落ち着きだした。
「教員なんて変わり者ばかりなんだよ。」と嘯く同僚の先生たちはいい人ばかりで(ということにしておこう)、毎日が面白く次の教員採用試験は絶対受かるぞ!と意気込んでいた。
ある日、授業中生徒たちと修学旅行の話になり、その行く先が中国だというのを聞いて、ふと悪戯心を起こしミニ中国語講座をやってみた。抑揚がはっきりした中国語の発音にみんな大受け。授業を終えて職員室に戻ろうとしたら、女子生徒が真面目な顔で私の前に立った。
「先生、中国語できるんですね」
「留学してたから発音はそれっぽく出来るけど、もうヒアリングは全然できないよ。」
「あの、実は私、中国人の人と中国語の勉強会やってるんです。先生、来ませんか。」
ずっと再開したいと思っていた中国語の勉強。しかも生徒が誘ってくれるなんて、断ったらばちがあたる。是非行きたいと答えると、
「よかったあ、参加者少ないんです。来てるのは女性が3人位と男の人が二人。一人はお坊さんなんですけど。」
お坊さん・・・坊主頭のおじいちゃんが浮かぶ。お経も漢文だしな・・・。
その「お坊さん」と自分が結婚することになるとは、このときは全く予想だにしていなかったのである。
・・・続く。
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